みなさまこんにちは。
突然ですが奇跡という言葉を信じますか。偶然の人のつながりから生れた物語。そして今私は思います、私達がこの世に生きている事も奇跡かもしれないと・・・。
しかし私たちがこの地球に生きていることに必ず意味があるはずです。
「5月3日はひまわりの日」という“大切な日”が出来上がるまでの物語を今日は紹介したいと思います。
地震列島・日本、この言葉では言い表せない恐怖体験からこのひまわり物語は始まる。
阪神淡路大震災、新潟大地震の時も同じ日本人として、この東久留米市から何か協力ができないものかと常々考えていたことだった。
そして、2011年3月11日午後2時46分のマグニチュード9、そして大津波。
古代より日本列島に住む大和の国に住む人々は、大自然の猛威に破壊をされながらも、神の怒りとして受け止め生活をしてきた。
この21世紀は、遠く離れた場所で今起こっている事が映像で中継される。大地震からわずか数十分で船を陸に押し上げ、車や人々を飲み込み、村々の家屋をすべて押し流していく津波の凄さを観た。
そして、原発建屋が次々と爆発していく・・・・見たくはなかった。だが、見ざるを得なかった。涙が次から次と溢れ出し、まだ地面が揺れている中、ただ呆然 としながら、何が起こったのかを把握するコトが精一杯だった。何かをしなければ、と思っても何をしたら良いのかが分からず時間だけが過ぎていった。
3月24日の新聞に次の様な見出しが載った。「東北道が全面通行可能に・・」
もう考えていてもダメだ!動くしかない!東久留米の農家の4人が立ち上がり、支援物資を持って行くことを決めた。石巻の友人を頼りに行き先も決まった。
あっという間に協力者が65人になり、集められるありったけの物を集め4月1日にトラック2台で石巻に運んだ。石巻、女川、牡鹿半島・・・車を進めていく 中で次々に信じられない光景が飛び込んでくる。いや、その光景に自分が飲み込まれていく感覚を覚えた。街はヘドロと瓦礫でどこまでも黒く、乾いて巻き上 がった粉塵で遠くは霞んでいた。
痛い・・こんなに痛い惨状を言葉で綴る事はできないであろう。
東久留米に戻ってきた私たちは一瞬の達成感を味わっていた。しかし一晩寝て覚めた時そこに湧き出てきた感情は、達成感でも無い、良い事をしたという満足感 でも無い。そこにあるのは脱力感だけだった。大自然のあまりにも巨大な力。そこに対峙した時の人間の無力をまざまざと見せつけられたからだ。
夜がきてそしてまた日は登り朝が来る・・・テレビでは、毎日毎日新たな事実を突きつけられ、そこに住む人々の姿が映し出されるたびに、このままで良いの か、何かメッセージを送らなければ・・・「頑張れ!」「泣かないで!」「ちがう!」「何をしたら良いの?」「お金?」「毛布?」「食べ物?」それは既にド ンドン送られている。
そんな折、石巻から封筒が届いた。表には「お礼の気持ち在中」と書かれていて中を開けると子供達の笑顔の写真とミサンガの束が入っていた。手紙を読むと 「お菓子を沢山持ってきてくれてありがとう。私は津波で家を流されたので友達の家に泊っています。私と友達でミサンガを65本作りました。助けてくれた皆 さんにお礼の気持ちとして渡して下さい。」と書かれていた。
この写真に写っている子供達は本心から笑っているのだろうか、いやそんなはずは無い。きっと色々な感情を胸の奥深くにしまって笑っているに違いない。この 子たちをもっと元気にしてあげたい。この子たちが大人になった時のために日本は素晴らしい国でなければならない。そう強く思ったのを今でも覚えている。
時を同じくして知り合いの女性から電話が入った。その女性は福島に行って、「ひまわりの種を蒔いて放射能で汚染された畑を蘇らせたい!でもどうやって蒔い たら良いのか分からないので教えてほしい!そして協力して欲しい!」と言った。どうやら世界中で決まった日に被災地を思いながら花の種を蒔こうというキャ ンペーンがあるという。
正直なところ無理だと思った。あまりにも危険過ぎる・・・。廃棄物の問題も残った。
「ん?待てよ・・・。そうか福島では無理だが東久留米でなら蒔けるじゃないか!市民に呼び掛けてひまわりの種をプランターに蒔いてもらって俺達農家が花を育てて被災地に運ぼう!」
被災地で苦しむ人達の顔が浮かんだ。ミサンガを一つ一つ作ってくれた子供達の顔が浮かんだ。もしかしたら俺たちの仕事を活かして被災地の人達を笑顔に出来 るかもしれないと思ったその時、頭の中に「ひまわり」が太陽の光を浴びてまっすぐにそして鮮やかに咲いている光景が浮かび上がった。
「やるしかない!希望の種を蒔こう!」
「5月3日」南沢のとある農家の畑に大人や子供合わせて150人もの人が集まった。
青年会議所のみんなも協力してくれた、全ての参加者が思いを一つにした。
ひまわりの種をありったけの思いを込めて一粒一粒蒔き、希望のメッセージカードを一人一人に書いてもらった。そして青空の下で俺たちが作ったスイトンを食べてもらいながら、知らない人同士が話し合い、被災地の未来そして東久留米の未来を想像した。
ひまわりのプランターは7月7日に無事に石巻と福島県の南相馬に運ばれ、太陽に向いて咲くひまわりの花とみんなが書いた「あなた達を忘れはしない!」「ふんばれ!」「みんな一緒だよ」のメッセージカードで思いやりの気持ちが届いたと思っている。
実はこれがきっかけで石巻の商店街と強く繋がっただけでなく、東久留米のお店を持つ女性達ともつながった。彼女たちは被災地の物産を売ったり、支援物資として寄付されたお鍋をお金に変える活動をした。それが「まきくる」で、ひまわりのマークも作った。
2011年5月3日にひまわりの種という希望の種を蒔いた。その希望の種は被災地の人の心に笑顔と元気を与えてくれた。そんな5月3日の行いはずっと続けていかなければならないと思った。
求められる事は変わって、それが花の種でなくても「つながり、学び、考える」ことで人の心に希望の種が蒔かれる日それが「ひまわりの日」・・・
2011年5月3日に至る経過とその後の活動については、以下のブログをご覧ください!
≫SEEDs of HOPE at 東久留米のブログ (現在も更新中)